Light Trap



 学校でもどこでも、小さな頃から無口で目立たない子だと言われて来た。頷き半分、否定半分だ。この一年で自分に約束もしくは強制されていた目立たない人生は、どこかに吹き飛んでしまったから。ピーター・パーカーは真夜中近くの大通りをのろのろと歩きながら、いつも通りに過ぎた今日一日を頭の中で反芻していた。
 朝五時にスパイダー・センスに叩き起こされ、授業に遅刻し、教授の愛と単位をま
た逃し、落ち込んだ気分のまま午後一番にJJJのいつもの暴言と説教。その後公園のベンチで朝食兼昼食を食べていた所にまた緊急警報を受信し、ワッフルを喉に詰まらせ自分が救急車を呼びたい気分になりながら何とか一仕事こなした。そして学校に戻ってフィルムを現像し、デスクに届け、JJJに怒鳴られ、その帰り道でスミス&ウェッソン二挺と対決して、助けた老女に罵声を浴びせられ、夕食とスーツの右足に開いてしまった大きなほころびの事で頭を一杯にしながらアパートまでの長い道をとぼとぼ歩いている。
 ありふれた若者の日常だ。むしろ今日はちょっとのんびり過ごしすぎたかな?ピーターは小さく呟き、その後大きく溜息を吐いた。とにかく始終バカでも言ってなきゃやってられない。自分のジョークで自分をごまかして、何とか一日を乗り切る。もし誰かがこの頭の中を録音できる機械を開発したら一日でトゥナイト・ショー三回分くらい喋り倒しているのが聞こえるだろうとピーターは思った。少なくとも自分は無口なんかじゃなく、相当のムダ口叩きだ。ムショ暮らしにはユーモアが不可欠―――これは誰のセリフだっけ?
 永遠に続くんじゃないかと思うような道を足を引きずるように歩き、やっとの思いでアパートに辿り着いた頃には日付はすでに変わっていた。ハリーはまだ起きているだろうか。同居人の事を思い出し、ピーターはほんの少し眉を曇らせる。
 エレベーターを降りてそっと部屋の鍵を開けると、話し声のような音が低く聞こえた。
 「ハリー?」
 呼び掛けるが応えはない。中に入ると青白いテレビの光りだけが部屋を照らしている。鼻につくアルコールの匂い。ピーターはまた溜息を吐き、ずり落ちそうな格好をしてソファの上で熟睡しているハリーに近付いた。テーブルの上には三分の一ほど空いたブランデーらしき酒の瓶とグラスが置いてある。多分また父親のキャビネットから持ち出して来たのだろう。そこには他にも未成年に相応しくない物として、パルムドールの受賞式に使えそうな羽を模した金のペンや、相当高価なんだろうが趣味がいいとは言い難いネクタイなどが散乱していた。もうニ週間近く、ハリーは自分の部屋かダイニングでこうして遺品と向き合って飲めない酒を飲み続けている。
 ピーターは薄暗い中でその苦痛に満ちた寝顔を見つめた。パートタイムの大学生、パートタイムのカメラマン、フルタイムのスーパーヒーロー。自分で付けた惹句の中でも一番気に入っているフレーズだが、こうしてソファで酔い潰れている親友を見るたびすぐさまそれを書き換えたくなる。ピーター・パーカー。パートタイムの同居人、フルタイムの卑怯者。
 「ハリー」
 もう一度軽く肩を揺さぶりながら名前を呼ぶ。相手は小さく呻いただけで目を覚ます気配は無い。仕方なくピーターはハンナ・バーバラのアニメが流れているテレビを消してハリーの身体を担ぎ上げた。それは変に骨っぽく軽くて、疲れた心を余計ささくれ立たせる。


 
 次の日の昼近く、歯ブラシをくわえながら窓という窓を開け淀んだ空気を部屋から追い出そうとしていると、引きずるような足音を立てハリーが階段を下りてきた。
 思わず動きを止め、片手で顔を覆いながら手すりにもたれている彼を見た。髪も服もぐちゃぐちゃでまるで年季の入った浮浪者のように見える。ピーターは何か言わなければと口をもごもごさせたが、それより早くハリーが今日は遅いんだなと小さく呟いた。
 「講義が休みだから」
 歯ブラシを口に入れたまま不明瞭にそう答えたが、ハリーはどうでもよさそうに背中を向け洗面所に入って行く。久々にゆっくり眠れて体調は良好だったが、昨夜の疲れが一気に蘇ってきた気がした。
 洗面所が塞がっている間仕方なくキッチンで口をゆすぎ、シリアルに大量の砂糖と牛乳をやけくそ気味にぶち込んでいると、水音が止んでタオルを手にしたハリーが出てきた。目の周りと頬が赤く、髪は濡れてダイナマイトでも仕掛けられたみたいにめちゃくちゃになっている。彼は決まり悪そうにピーターを見ると曖昧な笑みを浮かべて肩をすくめた。 
 「昨日はごめん」
 「それはいいから髪くらい梳かせよ」
 そう返すとハリーはわざとらしいくらい皮肉っぽい顔をして、そっちこそいい加減床屋に行けとおどけた風に言った。思わず頭に手をやると確かに前髪が口元に届きそうなくらい伸びている。
 「忙しいんだ」
 「だろうね」
 コップに水道の水を注ぎながら、ハリーはまた不機嫌そうに顔を伏せた。
 ハリー・オズボーンは小柄でずんぐりした体型のピーターとは違い、身長はそこそこ高いしスタイルもいい。「変身」したピーターは彼が冗談でも適わないほどの筋肉と瞬発力を身に付けてはいたが、純粋に見た目のバランスで言えばハリーの方がずっと俊敏そうだ。ルックスもハンサムの部類に入るだろう。何より全ての教職員も含めてミッドタウン高校の誰よりも金持ちだった。全員分合わせた額より持っているかもしれない。本人の努力次第ではプロムの主役にもなれたかもしれない男。しかしピーターは出会ってからの数年間、自分以外の人間と親し気にしているハリーを見た事が無かった。
 「ヒーロー様はご健在かい?」
 水を飲み終えたハリーに鋭い口調でそう言われピーターは危うくシリアルを吹き出しそうになった。一瞬脳味噌と胃袋が入れ代わるんじゃないかと思うほど混乱したが、すぐに彼がテーブルの上のカメラを見ているのに気付く。
 「最近は……あんまり」
 急いで口の中の物を飲み込んでピーターは言葉を濁した。ハリーはピーターがスパイダーマンの写真をデイリー・ビューグルに売っているのを当然だが良く思っていない。幸か不幸かビューグルに載るスパイダーマン関連の記事はこきおろしと悪意に満ちた誤報ばかりだから、表立ってカメラマンの仕事を反対された事はないけれど。
 「気を付けろよ。MJだって襲われたんだ。君もいつ襲撃されてもおかしくない」
 悲しいほど殺気立った目で睨まれ、ピーターは無言で頷くしかなかった。こんな時は思いきって全てをぶちまけたくなってしまうが、自分がそんな事をするほど愚かでもなく、上手く説明できるほど利口でもないのをよく知っているからひたすら我慢する。
 「今日は休みなんだろ?」
 少しの沈黙のあと、無理のにおう明るい声でハリーは言った。休学中の彼は一日このアパートにいるか、実家に戻って荷物を整理しているかしかしていない。
 「いや、今日はビューグルに行かないと―――レシピ担当のカメラマンが急病で代打に呼ばれてるんだ」
 ピーターは異常なくらい過密にスケジュールを入れていた。ここには寝に帰る暇しかないくらいに。
 「そう」
 僅かな沈黙のあと、ハリーはそれだけ言ってまた肩をすくめた。
 ピーターは言葉を続ける事が出来ずに、仕方なくふやけてしまったシリアルを一気に流し込んで出掛ける支度を始めた。自分の部屋に戻り、コスチュームを着け、オクスフォードシャツとパンツを着てボタンをきっちり上まで留める。すでに習慣になってしまった重ね着だが、事件以来前より一層同居人に見られる事は恐怖になっている。
 髪も何とか格好を付けてバッグを持って下に降りると、ハリーはまだ空のコップを持ったままシンクにもたれていた。
 「帰りは?」
 目も合わせないままぶっきらぼうに聞かれる。
 「遅いと思うけど……昨日みたいなのは御免だぜ。潰れるなら自分の部屋で潰れてくれよ」
 なるべくふざけて聞こえるように願いつつそう言って、ピーターはカメラを取ってドアに手を掛けようとした。
 その時、予想もしなかった力が背中に加わった。
 ピーターは驚いたが、振り向く事はできなかった。ハリーの手は微かに震えて、押し出すでも引っ張るでもなくピーターの背中に張り付いている。 
 言葉は無くても彼が何を求めているのか、ピーターには分かった。その手にはほんのわずかな力しか篭もっていなかったが、それでもピーターの心臓を握り潰すには充分だった。
 たった一言、やっぱり今日は休みにすると言えばいいのだ。そしてハリーの目を酒以外のものに向けさせる。彼の話したい事を全部聞いて、少しでも気を楽にさせたい。自分は彼の唯一の友人で、自分にとってもハリーは大切な人間だから。仕事を失うくらい何てことない。彼の苦しみを癒すためなら何だってやれる。
 でも、今はそれが出来ない。
  「……ごめん」
 わずかな沈黙のあと、ピーターは掠れた声でそう呟くと振り向きもせず部屋から飛び出した。罪悪感と後悔と恥と、そして少しの安堵感が襲い掛かって来て一瞬押し潰されそうになる。しかし立ち止まる事が許されていない彼には、エレベーターが一階に下りる数秒間だけしか泣く時間は無かった。

 

 一番来るべきではない場所に来てしまったのかもしれない。ピーターは人で一杯のカウンターで居心地悪く身体を揺らしながら紙ナプキンを手の中でぐちゃぐちゃに丸めていた。夕飯時のピークはとうに過ぎたはずだが、店内はまだサラリーマンや学生でごった返し厨房からは怒号と何かが派手に割れた音も聞こえる。しかしそんな騒音の中でも、ピーターはその声を聞き逃さなかった。
 それは不機嫌で疲れていて氷のように冷たかったが、同じように冷え切っていたピーターの心を一気に暖めた。薄暗い照明の中でも燃えるように光る赤い髪。多少ためらいながらそっちの方へ手を上げると、まるで合図でも受けたかのような絶妙のタイミングで彼女は振り向いた。
 「ピーター!」
 無愛想そのものだった表情が一瞬にして輝き、そして次の瞬間今朝ハリーがしたような強張った笑顔に変わる。ああ、やっぱり来るんじゃなかった。どう考えても彼女に会わせる顔なんて無いのに。
 それでもメリー・ジェーン・ワトソンは伝票を持ってはるばるやって来てくれた。少しやつれたようにも見えたがその愛らしさと煌めきには変わりが無い。少なくともピーターにとっては。
 「今日は学校?」
 BLTとジンジャーエールの注文をいやにゆっくり書き込みながらMJは囁いた。厨房の奥からこの前見た大男の黒人がこっちを睨んでいる。
 「仕事だったんだ」
 何故か合わせて小声になってピーターは答えた。
 「忙しそうね」
 「お陰さまで。君は?その―――」
 MJは答えを言いかけたように見えたが、急に生真面目な顔になって身を翻しさっさと厨房に戻ってしまった。
 ピーターは溜息を吐きすでにビリビリに破れてしまったナプキンをカウンターの上に放り投げた。MJの声や笑顔には確かに勇気付けられるし、ここの煮しめた靴底のようなサンドイッチよりずっと素晴らしいパワーを与えてくれると思う。しかし自分は一度彼女を突っぱねたのだ。何より命を危険に晒した。本来なら一本道ですれ違いそうになっても、紙袋でも被って他人のふりをするべき相手なのだ。なのに自分はまるで誘蛾灯に突っ込んで行く羽虫のようにフラフラと彼女を求め、夜中近い薄汚れたダイナーでスパークを起こしている。
 本当に彼女に触れてパッと発火して消えてしまえるなら、それはそれで本望なんだけれども。馬鹿馬鹿しい事を考えている内にウエイトレス・モードのままのMJがトレイを持ってやって来た。
 「お待ちどうさま」
 しかしこれが演技なら女優を志すのも当然と思うくらい冷たくそっけない声でそう言うと、MJはおざなりにそれを置いてまたすぐに厨房に戻って行ってしまった。訂正。彼女に触れられなくてもいいから今すぐこの場で発火して消えたい。
 一気に胃袋が縮み上がって食事どころでなかったが、とりあえず他に見るものもないのでピーターは注文の品に目を落とした。きっとここまで醜く作るには何か卓越した秘伝の技術が必要なんだろうなと思わせるサンドイッチと油っぽく汚れたエールの瓶。それに丸めたみたいにくしゃくしゃの紙ナプキン。
 一瞬間を置いて、ピーターは引き千切らんばかりの勢いでそれを開いた。

 

 「ごめんね。この前同僚がお客と駆け落ちしちゃって、監視が厳しいの」
 夜風に煽られる髪を片手で押さえながらMJは苦笑して言った。ピーターは羽虫の喜びに浸りながら彼女に合わせて歩調を弛める。
 「いつもこんな遅くまで?」
 「一人辞めた分、余計に稼ぐチャンスだわ」
 そう言ってMJはにっこり笑ったが、その目の下にはプロはだしのメイク技術でも隠しきれていない隈が見えた。ピーターはすぐさま通り向こうの銀行を襲って彼女のコートのポケットに札束をねじ込んでやりたくなったが、実際は黙って笑う事しかできなかった。
 「その……ハリーは大丈夫?」
 しばらくしてMJは押さえた声でそう訊いてきた。当然予想していた質問だったが、ピーターの心臓は必要以上に跳ね上がる。すぐに答えようと口を開いたが彼女を安心させるために嘘を言えばいいのか、正直に毎夜高級ブランデーを床にこぼしていると言えばいいのか分からず曖昧な唸り声を出してしまう。
 「確かにまだショックでしょうけど……でも、あなたが側にいるものね」
 追い討ちをかけるような言葉に、笑う事すら出来ずに俯く。
 「正直、あなたたちがすごく羨ましいの。私は高校時代に友達をたくさん作ったつもりだったけど……」
 MJはしかしピーターの様子には気付かないように、逆に言葉を詰まらせた。ピーターは思わず自分の心臓の痛みも忘れてMJの方に顔を向ける。
 「今私に連絡を取って来るヤツなんて一人もいないわ。パーティのお誘いもなし。時々思うのよ。馬鹿げてるけど……私は青春ってものを高校時代で使いきっちゃったのかもって」
 「そんな事!」
 MJが喋り終えるか終わらないかのうちに自分でも驚くような大声でピーターは叫んでいた。通行人がニ、三人振り返る。
 「……そんな事を、言っちゃ駄目だよ」
 耳まで熱くなるのを感じながらピーターは小声で付け足した。やはり紙袋を持って来るべきだった。
 「ありがとう」
 MJも丸く見開いた目を細めて、やはり小さな声で言った。
 「環境が……少し、変化しただけだ。君は、その、高校時代も今もとても……素敵だと思うよ」
 ピーターはついその微笑みに調子に乗ってそう言ってから、自分で自分の顔を殴り付けたくなった。しかしMJは素直に顔を輝かせるとさっきよりも大きな声でありがとう、ともう一度言った。
 「あなたも凄く魅力的だわ、ピーター」
 ピーターはその場で派手に転びそうになった。本当に一瞬膝の力が抜けそうになったのだ。
 「MJ?!」
 「誤解しないで。また迫ろうって言うんじゃないのよ。正直まだ望みがあるとは思ってるけど」
 血が集まりっぱなしの頭でピーターはMJを見た。彼女はいたずらが大成功した子供みたいな表情でこっちを見ている。
 しかしそれは一見、いかにもこういう事に慣れていないピーターをからかっているように見えたが、小さい頃からMJを見つめ続けて来たピーターにはその裏に彼女特有の強がりが透けているのが分かった。そしてやはりMJに気を使わせていた自分を激しく嫌悪した。
 「本当に、人を惹き付ける何かがあると思う」
 表情とは裏腹な真面目な声でMJは続けた。ピーターはどうしたらいいか分からずにゴムが剥がれそうな自分のスニーカーの足先を見つめる。
 しばらく二人は無言で歩いた。その間ピーターはこの場で自分のシャツを引き裂き彼女に正体を明かしてしまうか、今すぐマンホールに潜って地底蜘蛛男として都市伝説になるか、どっちが利口な方法かをかなり真剣に考え続けた。
 「もう、そこだから」
 やがてMJは通りを挟んだ向いの古いビルを指差して立ち止まった。ピーターは弾かれたように顔を上げ、木偶のように首を上下させ頷く。
 「おやすみなさい。送ってくれてありがとう」
 MJの微笑みにスマートな笑顔で返そうとしたが、口元がセメダインで固められたように強張りやはり無言で頷く事しか出来ない。
 「あなたって無口なのね」
 もう一度ピーターが頷くと、MJは堪えきれないといった様子で声を上げて笑った。
 さすがに少し気を悪くして眉をしかめると、MJは呼吸を整えながらごめんなさいと言った。
 「からかうつもりじゃなくて、本当に無口なんだなって思ったのよ」
 「……口下手なだけだよ」
 「友達に対してもそんなに喋らないの?」
 MJのその言葉はまたピーターをうろたえさせた。『友達』がMJ自身を指すのかどうか分からなかったが、瞬間、今もアパートで酔い潰れているかしているだろう『友達』の姿が浮かんで胃の辺りが冷たくなる。
 「ピーター?」
 MJに顔を覗き込まれピーターは慌ててひっくり返った笑い声を上げる。
 「男の人って聞きもしない事をベラベラ喋り続けるか、必要な事も話さないかのどっちかね」
 「女の子は違う?」
 「無口な女なんてほとんどいないわ」
 MJはまた笑い、気分を切り替えるように短い溜息を吐くと、急に真面目な表情になってピーターをじっと見つめた。
 「でも、私は話してくれるまで待つ。本当はこの場で首を締め上げてでも喋らせちゃいたいけど……あなたの持ってる秘密とか、考えてる事を全部話してくれるのを待つの」
 「僕に秘密が?」
 内心の驚きを悟られないようにピーターは小さな声で言った。
 「何か、大きなね」
 表情を崩し猫のように口の端をきゅっと持ち上げて笑いながら、MJは気取った風に腕を組む。
 「それは女性のカン?」
 「MJのカンよ」
 そう言ってダンスのようにくるりと身体を半転させると、MJは軽い足取りで横断歩道に向って歩いて行った。
 「あ……おやすみ!気を付けて!あと……」
 慌ててその後ろ姿に声を掛けると、MJはぴたりと止まってこっちを向いた。
 「あと、なあに?」
 ピーターは驚き、思わず背筋を思いきり伸して出来の悪い兵卒のようにその場に固まった。もう少し動揺していたら敬礼もしたかもしれない。
 「あと―――おやすみ」
 MJは間抜けなピーターの呟きを聞くと、にっこり笑ってとんでもない事を言い残し、今度こそ横断歩道をモデルのような歩き方で渡って行った。
 ピーターはやりきれない気持でその場に立ちすくみ、去って行く小さな背中が建物の中に消えても通りの向こうを見つめていた。
 あなたみたいな人が友達で、ハリーが羨ましい。



 部屋に戻るまでの間、ピーターの気分は浮いたり沈んだりでかなり忙しかった。MJはまだ自分に好意を持ってくれているらしい、という事を知ったのはもちろん最高に嬉しかったが、一方で彼女の最後のセリフが空に昇ろうとするピーターの心を地べたに引っ張り続けた。ハリーが羨ましい?働かなくても一生食べていけるだけの財産があり、ブロンドで、ハンサムで、父親を殺した―――と彼が信じている―――不実な同居人と暮らしている男が?
 瞬時に自分の考えた事に激しい嫌悪を感じ、ピーターは遣り場の無い怒りをアスファルトにぶつけた。部屋に帰りたくない。とても身勝手な願いだとは自覚しながらも、ピーターはアパートまで真直ぐ続く大通りを引き延ばすようにひどくのろのろと歩いた。
 しかも三十分ほどして辿り着いてしまったビルの前で、かなりくたびれた気分で自分たちの部屋の窓をたっぷり十分ほど見上げた。明かりは点いていない。点く様子も無い。今夜は実家の方に戻っているのかも知れない。その考えに少しほっとして、ピーターは少ししてなんとか普段の足取りでビルの中に入っていった。
 エレベーターに乗っている間、ピーターは完璧に油断していた。とにかく帰ったらシャワーを浴びて冷蔵庫の残り物を適当に食べて寝てしまおう。明日こそ授業に遅刻するのは避けたい。だから記憶にある限りの冷蔵庫の中身を思い出そうとしながらエレベーターが最上階に着いたとき、思わず声を上げそうになるほど驚いてしまった。
 部屋のドアの前にはハリーが力無く座り込んでいた。
 「鍵を落としたんだ」
 挨拶のつもりか怠そうに片手を上げながら、ハリーはピーターに笑い掛けた。
 「ずっとそこに居たのか?」
 「いや。大した時間じゃない」
 ピーターはそっとドアとハリーに近付き、かなり苦労してポケットからキーホルダーを引っ張り出した。アルコールの匂いはしない。ひどく疲れて見える以外はおかしな様子も無かった。
 「待たせてごめん。開いたよ」
 ドアを開け促すように手を広げると、ハリーはのろのろと立ち上がって壁に手を着きながら部屋の中に身体をすべりこませた。ピーターも後から続き手探りで照明のスイッチを探す。
 「ピーター!」
 しかしスイッチに手が触れる前に、突然鋭いハリーの声が部屋に響いた。
 驚いて硬直しているとほんの僅かだが危険信号が頭の中で鳴った。振り向くと拳を突き出したハリーの身体が弾丸のように突進して来ている。
 「ハリー?!」
 咄嗟に身体をずらすとハリーは勢い余ったようにテーブルの上に倒れ込んだ。 慌てて痛そうな呻き声のする方に駆け寄り、恐る恐るその身体に触れると、その背中は小刻みに震えている。
 「ハリー……」
 「何で!」
 ピーターの声を切羽詰まった怒号が掻き消す。ハリーは手をはね除けて立ち上がり、ピーターを威嚇するように立ちはだかった。
 「何で、何も言わないんだ」
 薄暗さに目が慣れてきて、怒りに染まったハリーの顔はしっかり読み取れた。ピーターはただ目を見開いて今まで見た事もないようなその表情を見つめる。
 「言いたい事があるんじゃないのか?」
 震える声で続けるハリーから、ピーターは目が逸らそうとした。しかしふいに両肩を荒っぽく掴まれ、嫌でも真っ青な顔で激昂しているハリーに向き合わされる。
 「君すら、そうやって僕を蔑ろにするつもりなのか」
 「違う!」
 反射的に叫びピーターは手から逃れようと身をよじった。今のピーターにはもちろん簡単な事のはずだったが、どうしてもハリーに対して強い力を使う気になれず、床の上で下手なステップを踏んだだけになってしまった。
 「じゃあ何で僕を避けてる?僕が飲んでいようが何をしようが、君はまともに会話すらしようとしない!」
 「違う……」
 同じ事を情けない小声で言って、ピーターは首の骨が折れたように俯いた。
 「親が死んだくらいで駄目になるような奴は友達に値しないって言うのか?君みたいに前向きで強く生きろって?」
 自分で自分の言葉に煽られているように、ハリーの語気は次第に激しさを増した。ピーターは泣きそうな気分で必死に頭を振りその言葉を否定しようとする。確かに君を避けてはいるし、話もしたくないけれど、そんな理由じゃないんだ。そうぶちまけたくなり強く唇を噛む。
 しかし、ふいにハリーはヒステリーが頂点に達したように声にならない小さな叫びを上げると、がっくりと力を抜いてそのままピーターにもたれ掛かってきた。
 ピーターは驚き顔を上げたが、彼の髪や肩が視界を覆っていて何も見えない。荒い呼吸音が耳元で激しく繰り返されていた。
 「ピーター、頼む……」
 やがて掠れた声でそう呟くと、ハリーはその両腕をゆっくりとピーターの背中に回して来た。抱き締めるというには余りに力無いそれは、縋り付くようにピーターのシャツを掴み細かく震える。
 「情けないのは分かってる。でも駄目なんだ」
 ハリーの声には意外なほど、自己憐憫や同情を引くような響きは混ざっていなかった。ただ事実として自分の今の姿を語っている。とても正直に。
 「君の助けが欲しい」
 ややあって、ピーターもためらいながら両腕をハリーの背中に回した。それは一瞬びくりと跳ねたが、すぐに力を抜いてピーターに包まれるままになる。髪がもつれ合いそうなほど額を寄せられそっと目を開けると、歯の根が合わないほど震えている唇を頬に押し付けられた。
 今月に入ってからニ度めのキスだ。自分が驚いていない事に驚きながら、ピーターは拒むでも応えるでもなく、妙に冷静にそれを受けてMJを突き放したあの墓地を思い出していた。理由がどうであれ、どんな思いがあろうと、自分にこんな真摯なキスを受け取る資格はない。それなのに人は何かを求めて、溶けてしまいそうな情熱をぶつけて来る。ピーター・パーカーがハンサムだから?セクシーだから?ゴージャスに見える?そんな訳あるか―――。
 「ハリー」
 じっと固まってしまっている肩を軽く撫で、ピーターはハリーとの距離を少し開けた。いつも困ったような顔をしているハリーはますます困惑した様子で、下唇を噛んで自分を見下ろしている。ピーターはきっと自分も物凄く間抜けな表情をしているに違いないと思った。どんなに真面目な顔をしようとしても、何となく笑っているように見えてしまうのだ。
 「ハリー……」
 呼び掛けたはいいけれど、どう言葉を繋げればいいか分からない。自分より少し高い位置にある暗い眼を見ていると、スパイダー・センスとは違った感覚が首の後ろをちりちりさせるのを感じた。
 じっと黙りこくっていると、片手が背中から離れ、電流に痺れたように震える指がそっと頬に触れて来た。ふいにこの先に起こる事を予感して、ピーターは背筋が寒くなるような熱くなるような妙な感覚に捕われた。今なら拒んで、笑い飛ばせる。そしていつか来るこの友情の終わりも多少はマシに迎えられるはずだ。 多少は。
 「君しか居ないんだ」
 まるで間違いと分かっている答えを教室の真中で発表しているように、ひどく自信の無さそうな声でハリーが呟いた。
 「違うよ、ハリー」
 自分の他にもハリーを見守り支えてくれる人間は居る。そうピーターは続けたかったが、それこそ確信を持って言えるようなセリフではない事に気付き、首を絞められたように声を詰まらせた。
 「違わない」
 ハリーの顔はますます紙のように白くなり、反対にその眼はジャンキーのように熱っぽく光っている。頬に当てられた指の震えも大きくなる。
 「君だけだ」
 薄情な冷静さと度を越したパニックが入り交じって、ピーターの頭の中は真っ白になった。こんな事をしてもどっちも幸せにはならない。ハリーにそう言いたかったが、その前に指がピーターの顎をしっかりと掴んでしまった。
 何とか焦点をしっかりとハリーの顔に合わせる。ハリーの表情はまるで死神のようだった。どうして不幸な結果に終わる事が分かっているのに、こんな事をしようとするのだろう。まるで誘蛾灯に群がる羽虫のように。
 ピーターははっとして身体を強張らせた。そのふいを突かれて、予想もしなかった強い力で身体を引き寄せられる。
 反射的に全力で突っぱねようとしたが、崖っぷちの理性がそれを邪魔した。反応が遅れ、驚く間も無く歯に強い衝撃を感じ、次に唇がひどく痛んだ。
 三秒ほど頭を空白にした後、今度こそピーターはしっかりとハリーを突き放した。
 緊張で息が荒くなり、背中に冷たい汗が吹き出す。口の中で僅かな血の味も感じた。ハリーの上唇も赤く染まっている。
 「なんで、こんな」
 しばらくして、自分でも驚くほど無機質な声でピーターはそれだけ言った。
 「分からない」
 長い沈黙の後、ハリーもロボットのような声でそれだけ答えた。
 部屋の明かりは点けていなかったが、通りからこぼれる光が時おり二人をまだらに染めた。何度目かの大きなクラクションが聞こえた後、それがスイッチのようにニ体のロボットは水面に上がったダイバーのような溜息を吐き、意味のない事をごちゃごちゃ言いながら部屋を歩き回った。
 必死になんとかこの重苦しい空気を壊そうとし、ピーターは内輪受けの冗談が通じた時のように皮肉っぽい顔をしてハリーに笑い掛けようとした。ハリーも肩をすくめ片方の口の端を上げる。
 二人は数分間そんな事を繰り返していたが、やがて馬鹿らしくなりまた向き合って立ちすくんだ。
 少しして、ハリーが一歩前に出て抱き締められた時よりも近くに身体を寄せて来た。ピーターは後ろにつんのめりそうになりながらも、それを拒まず顔を上げる。
 こんなに近付いたら危険なのは分かっているのに。ピーターの中に羽虫の感情が強く蘇って来ていた。MJに感じたものよりどうしようもなく暗く、絶望的な羽虫の気持ち。
 自分たちは互いの誘蛾灯に吸い寄せられた馬鹿な羽虫なのだ。深く踏み込んだらパチンと発火して消えてしまう関係。自分の何がハリーを誘い込んでいるのか分からないし、自分がハリーのどの光にフラついているのかも分からないけれども。
 「気持ち悪いな」
 「同感」
 率直な感想を口にし、二人は本当に短い間心から笑った。自分たちが高校時代を仲良く過ごせてきたのは、周りが敵だらけだったからだ。身を守るために友達という名の契約を取り交わした。でも今のハリーは明らかに傷を嘗めあう以上の繋がりを求めている。互いの間に秘密を無くしたがっている。それはピーターが最も避けたい事だ。
 でも、光に逆らえる羽虫なんていない。
 「……君がどう思っていようがいい。正直君の気持ちなんてどうでもいい。でも君じゃなきゃ嫌なんだ。どんなに気色悪くても、ひどい経験になっても、君がいい。今、この場所での君じゃなきゃ駄目だ。あとはどうでもいい」
 天気の話をするような口調でハリーがそう言うのを聞き、ひどく遣る瀬なく哀しい気分でピーターは目の前の身体を抱き締めた。
 「ひどい奴だ」
 言いながら、ハリーの腕が自分を包み、呼吸が頬に掛かるのを感じる。ピーターは唐突に自分が二十も三十も年を取ってしまったような気分になった。こんなどうしようもない事が、成長に繋がるとでも言うんだろうか。
 どんな力を手にしようが、光の前では馬鹿な羽虫になってしまうという事が。
 「お互い様だよ」 
 今度は柔らかい舌の感触を自分のそれに感じたとき、ピーターは頭の中のお喋りを全てストップさせ、青く小さく弾ける蜘蛛を目蓋の裏で想像した。

―――END―――

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