反射神経


 ゆっくりと不規則に揺れる吊り寝台の中で、ウィリアム・ブレイクニーはじりじり増していく痛みと不安感に奥歯を噛んで耐えていた。手術からはもう一週間以上経っているが、まだアヘンチンキとラムが切れかかった時の、このむず痒く刺々しい感覚には慣れることが出来ない。
 動けばさらに痛むことは分かっているので、辛抱強くじっとしながら、ブレイクニーはぼんやりとこの臨時の病室の中を見た。先の戦闘で自分と同じように負傷した乗組員が何人か、呻いたりうわ言を叫んだりしながら揺られている。自分も最初の晩は薬で朦朧としていた事もありひどく唸っていたらしいが、意識がはっきり戻るようになってからは、一言も余計な声は出すまいと心に決めている。

 索の軋む音と波音に混じり、軽い足音が近付いて来た。午後直が終わったばかりだったので誰かの見舞いが来たのかと思ったが、そうではなかった。
 ここからは後姿しか見えないが、それが誰かはすぐに分かる。左手に小さいグラスと大小のボトルを持ち、ブラウスの袖を肘まで捲り上げて、ひどい捻挫をした水兵の寝台に覆い被さるようにし小さな声で何か話し掛けている。
 ブレイクニーはその姿をじっと見つめた。弛めた襟から僅かに見える首筋や剥き出しの腕は赤っぽく日に焼けていた。ゆったりしたブラウスはところどころ汗で張り付き、薄い背中のかたちが浮き上がって見える。今日はよほど天気がいいらしい。
「ミスタ・ブレイクニー」
 しかしその背中が急にくるりと裏返ったので、ブレイクニーは慌てて視線を自分の膝の辺りに動かした。
「具合はどうだね。痛みは?」
 のんびりした足取りで近付いて来たドクター・マチュリンの声は、ここより上の甲板で聞くよりもほんの僅かに低く、柔らかい雰囲気がある。ブレイクニーはこの声を密かに“最下層甲板用調律”と名付けていた。
「大丈夫です、サー」
 右半身のちりちりした痛みは大分強くなってきていたが、ブレイクニーは腹筋に力を入れ、ゆっくり言った。
「本当かね? さすがだな、素晴らしい。若い肉体の回復力にはどんな薬も勝てない……頭を少し起して」
 しかし平坦な口調でそう言いながら、ドクターはグラスの中に手早くラムを注ぎアヘンチンキの雫を落とすと、それをブレイクニーの口元に近付けた。
 虚勢を見透かされたような気がしてブレイクニーは一瞬唇を強く閉じたが、ドクターが自分の様子をじっと見ているので、大人しくその“痛み止め”を飲み下した。とたんに喉と胸が焼け、ふっと緊張がやわらぐ。
「傷口を見せてもらおう」
 答える前にドクターはさっさと包帯を外しにかかっていたが、すでに感覚があやふやになってきた右腕にはほんの少しの痛みしか走らなかった。それと同時に、あの不安な感覚も消えている。
「よし……良好だ、化膿も無い。じきに甲板に戻れるだろう。左腕を器用に鍛えておきたまえ」
 外す時と同じくらい手早く新しい包帯を巻き付けながら、ドクターは冗談めいた声で言った。
「本当ですか?」
「ああ、これ以上気温が上がる前に傷口が塞がってよかった。壊疽の心配はほぼ無いだろう。実に、若さとは素晴らしい」
「それは、ド……」
 グラスや瓶を片付けにかかったドクターに、ブレイクニーは焦り、もつれだした舌で何とか話し続けようとした。
「ん?」
「ドクターの、お陰です。本当に……ありがとうございます」
 海に出る前、口さがない友人たちから軍艦で怪我や病気に罹ったらどんな目に遭うかさんざん聞かされていたブレイクニーは、未だ自分の全身に紫色の斑点が出来ないのも、骨が溶け出していかないのも全てドクターの叡智と技術のためだと強く感じていた。
 しかし当のドクターはちょっと不機嫌そうな表情をすると、それは君の陸での栄養状態のお陰だとか、礼を言うなら仕事を代わってくれている他の士官候補生になどと呟きながら、古い包帯を乱暴に丸めグラスの中に突っ込んだ。

 このいっぷう変わった軍医に、ブレイクニーは乗艦してすぐに強い興味を持った。
 陸に上がれば卿の称号が付くブレイクニーは、階級と規律のはっきりした環境で育ってきた。全ての人間には肩書きと上下関係があり、縦の戒律は絶対のものだ。だからドクター・マチュリンをはじめて見たとき、とても混乱した。
 軍人らしくも、まして船乗りらしくも少しも見えず、なのに艦の中で好き勝手に過ごし、しかも恐ろしいくらいずけずけと艦長に意見する。すぐに二人が長らく航海を共にしてきた親友だという事を知ったのだが、そうだとしてもやはり、ブレイクニーにとって一介の民間人がああも堂々と英国海軍の艦長にものを言うのを聞くのは強い違和感があった。
 もちろん同時に伝わってきた水兵たちの大げさな噂で、サープライズ号のドクターは陸の上でも望むべくも無い名医で高名な博物学者だという事も理解したのだが、それでもまだ解消できない不可思議な印象を、ブレイクニーはドクターに抱き続けている。

 自分の右隣に立ち、時折小さな声で英語ではない言葉を呟きながらカルテにペンを走らせているドクターを見上げ、ブレイクニーはその微妙に取り合わせのおかしな服装や、短く刈られた髪をひとつひとつ検分するように眺めた。もし陸の上でドクターに出会っていたら、さらに混乱していたかも知れない。彼がどういう階級でどういう立場にあるのかを即座に言い当てる事は絶対に無理だ−−自分が教えられてきた、軍人の線引きの中にはいないひとなのだ。
「ミスタ・ブレイクニー」
 カルテから視線を動かさずドクターが言った。
「何か報告するような症状が?」
 ブレイクニーは真っ赤になった。相手に気付かれるほどじろじろ見つめるのは礼儀に反した行為だ。両肩に力を入れて恐る恐るドクターの表情を見たが、しかし、その目は明らかに笑っていた。
「それとも牧師が必要な話かな」
「いえ、違います、その……腕のことで、少しお聞きしたい事があって」
 焦ってとっさに出た言葉だったが、嘘ではなかった。しかしそれを言うことは手術以降ずっとためらっていたのだ。ドクターの視線はカルテから離れ、こちらを見ている。ブレイクニーは観念し、小さく深呼吸をした。
「きっと、ただの勘違いだと思うのですけど……」
「患者の秘密は厳守する。言ってごらん」
 言い淀むブレイクニーに、ドクターはことさら小さな声でそう言った。
「その……時おり、痛かったり痒くなったりするんです」
「傷口が? 治りかけている証拠だ。心配ない」
「いえ、そうではなくて」
 ブレイクニーは内心でしまったと思った。今のドクターの言葉に頷いておけばよかった。
「手や……指先が痛むんです。いえ、そんな感じがしてしまうんです。それだけなんです……」
「右の?」
 ドクターよりもさらに小声でイエス、サーと呟くと、ブレイクニーは眉をしかめて俯いた。今の言葉でドクターに狂人だと診断されたら? きっと甲板に戻る事は二度と出来ず、英国に戻るまでここに閉じ込められっぱなしになってしまうのだ。
「普通の事だ。じきに薄れてくる」
 しかしドクターは事も無げにそう言うと、何も書き足さずにカルテを閉じてしまった。
「普通なんですか?」
「そうだ。腕だけでなく、身体のどこでも切断した直後は多かれ少なかれその感覚が残るんだ」
 ドクターの声はもう普通程度の音量に戻っている。心の底からほっとし、ブレイクニーは手術以来はじめてと言っていいくらい気楽な気分になった。
「でも、何故なんです? もう……腕は無いのに」
「人間の神経というのは、自分で思っているより異常事態に慣れるまで時間がかかるものなのだよ」
 羽ペンでブレイクニーの肩の辺りを指しながら、ドクターは諭すように言った。
「僕の神経は、まだかんちがいをしている最中なんですね?」
「そうだ。うまい言い方だな」
 滑車が軋んだような妙な音がして、ブレイクニーはドクターが笑ったのだと気が付いた。
「ではいつ頃、僕の神経は腕が無くなった事を自覚してくれるのでしょうか?」
 しかしそう言うと、ドクターは目を見開いてしばしブレイクニーを見つめた。そしてすぐに、それを優しげに細め、微笑んだ。
「ロード・ブレイクニー。君は勇敢な患者だ」
 それは今までブレイクニーが聞いた事のなかった“調律”だった。その音と言葉に、ぼやけていたはずのブレイクニーの全身は素面でいる以上に鋭敏に粟立った。
「だが、もうお喋りは止めた方がいいようだな。顔が赤い。どれ、熱を見よう」
 はっと気が付くと、ドクターは身を乗り出し右手をブレイクニーの額に軽く当てようとしていた。そして、その左手はブレイクニーの右手……もう無くなった右手の位置に置かれている。
 とたんに、今までで一番強くブレイクニーの右手の感覚が戻って来た。指が、掌がドクターの手を感じる。その細く骨っぽい手が自分の手に触れている感触がはっきりと伝わって来る。
「やはりちょっと熱が高いな。今日はもう面会は無しだ」
 上の空でその言葉を聞きながら、ブレイクニーは何も考えずがむしゃらにドクターの手を握りしめていた。右手で。あるはずのない指で、満身の力をこめて。
 しかし当然それにドクターをつなぎ止める力はなく、手は何も無いように離れ、こまごました道具を掻き集めはじめた。
「おやすみ、ミスタ・ブレイクニー」
 その指先を凝視しながら、ブレイクニーは黙ったままなんとか頷き、そして去って行く足音を聞きながらも、上がったままの体温とかんちがいの神経を持て余し続けた。
  

続く……? マチュブレに見えるかもしれませんが、ブレマチュで。ロード総攻で。

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