wisdom mate


 どういう心境の変化なのか。
 ジャックは充分に日の射す船尾甲板で、手摺りに乗り出しているふたつの背中を見ながら呟いた。
 インド人の踊りのような奇妙な手振りで忙しく海面を指差したり、空に何かの図を描いているスティーブン・マチュリンを見るのは別に珍しい事でも何でも無いが、普段ならそれは一人で勝手に騒いでいるか、運悪く捕まった非番の水兵あたりが相手をしてやっている日課である。
 しかし最近は常に、小さな青い制服がぴったりとその横に並び、金色の頭をスティーブンのせわしない声に合わせて行儀よく上下させている。
 
 艦には士官候補生をはじめ、水兵やパウダー・モンキーも含めると結構な数の子供が乗っている。初めて親元から離れるような者も多いので出航直後は正直使いものにならないが、大概は十日もしないうちに「親代わり」を見付けて艦に順応していく。例えば海兵隊大尉のハワードは荒っぽいが気の良い男なので、何かと暇を見付けては若い乗組員にマスケット銃や突き剣の稽古をつけてやっているし、副長のプリングズも立場上強面を作ってはいるが、本来の人の良さや朗らかさには逆らえず何かと水兵の相談を受けてやっているようだ。それに年季の入った船乗りの中には必ず面倒見のいいのが何人かいるので、彼らに導かれ子供らは驚くほどあっという間に艦のしきたりを覚えていく。
 中でも士官候補生に軍艦乗りの知識と実技を叩き込んでいくのはジャックの仕事だ。十二の歳から海に出ていたジャックにとって、その知識や経験を年若い候補生たちに教えるのは苦な事ではないし、場合によっては愉快でさえある。しかし候補生には一応それ以外の学問や一般教養的なものも教えてやらねばならない。
 教材は君が好きに選んでいいから、文学でも語学でも何か教えてみないかと提案したことがある。何にせよこの艦の軍医殿はそのどちらも非常に達者にこなすし、自分はそうでもない。もし陸でも役立ちそうならば、博物学の講義をさせてやってもいい。ジャックにしてみれば、普段頼みもしないのに(そして自分が決して真面目には聞かないことを知っているのに)よく小難しい話をぶつスティーブンの「知識の発散場」になればと思って言った提案なのだが、博識の軍医は憮然とした顔と遠慮する、の一言でその話を終わらせてしまった。

 アケロン号の襲撃により隻腕になってしまった士官候補生のブレイクニーは、残った左腕と右肩を使い器用に木炭で何かを書きとめている。時折スティーブンの後についてラテン語らしき言葉を繰り返すさまも、いかにも利発で勤勉そうだ。確かに今回の候補生の中ではなかなかに見所のある若者だが、見た目は縦も横も頼りないくらい小さく華奢で、十二という年より幼く見えることさえある。しかしスティーブンは笑みさえ見せながら、彼に若干興奮したような口調で長い間語りかけていた。それは自分にもたまに見せる表情によく似ていて、ジャックは妙な違和感を覚える。
 それにしてもあのブレイクニーの真剣さはどうだ! 視線をまっすぐスティーブンに向け、一言も聞き逃すまいとするように背伸びすらして、いささか緊張した表情でその「講義」に聞き入っている。彼が博物学に興味がある少年だとは両親からも聞いていなかったが、あれだけ熱心にあのスティーブンの長ったらしい話を聞けるのだから、よほど虫や鳥の世界が気に入ったのだろう。
 そうこうしているうちに点鐘が鳴り、ブレイクニーはスティーブンとジャックにさっと敬礼をすると、足早に昇降口へと去っていった。
「何を観察していたんだ?」
 つとめてゆっくりと近付きながら、ジャックは木炭で汚れた指をブリーチに擦り付けているスティーブンに言った。
「海藻だよ」
「珍しいものかい?」
 スティーブンはちらりといつもの上目使いでジャックを見ると、気の無さそうな声でいや、と呟いた。
「種類自体はありふれた海藻だ。ただ、この辺りを漂流しているのは珍しい」
「そうか」
 ジャックは続けて何か気のきいた事を言おうと思ったが、例によってうまい言葉は出てこなかった。もうすっかりいつもの無表情に戻ったスティーブンは、また手摺りに寄りかかりもう何も浮いていない海面に視線を戻す。
 短い沈黙が流れ、スティーブンはごそごそとポケットから煙草を摘みだし、許可を請うような目で一瞬ジャックを見てからそれに火を着けた。
「ブレイクニーは随分熱心に君の講義を受けていたな」
 そう言うと、スティーブンは意外そうな表情でジャックに顔を向けた。
「講義? 講義なんかした覚えはないよ。彼は自分で学問に目覚めたんだ。もう僕の著書を何冊も読破した」
「なんと。本当か?」
「君だってネルソン提督の記録を貸してやったんだろう?」
「ああ。しかし君の著作はなんというか……一般向けではないだろう。特に子供向けでは」
「多少専門的な用語は入っているけど、小難しい書き方はしていないつもりだよ。論文をわざと難解に書くのは三流の学者のやることだ」
「それで、ミスタ・ブレイクニーはその全部を理解したと?」
「ああ、暇を見つけては僕の部屋に来て質問したり、標本を熱心に眺めたりしているよ。きっとこの艦の上で一番の理解者だろうね」
 ちらりと皮肉の混じった視線が投げかけられたが、ジャックは気付かないふりをしてスティーブンと同じように手摺りにもたれ、海を見た。
「……君は子供が苦手なのかと思っていた」
「僕が? いいや、そんな風に思った事はない。……それに、ブレイクニーを子供だと思った事もないな。彼は賢い。少なくとも賢さの芽は持っている」
「そうか」
 なんとも間の抜けた合の手しか入れられない自分の舌に往生しながら、ジャックは煙を吐く親友の横顔を見た。最初に会ったときは二十歳にも六十歳にも見えた年齢不詳の容貌も、ここ数年でやっと年相応の老け具合に落ち着いてきたようだ。白髪が先に出始めてきたのはジャックの方だが、今はスティーブンの黒髪にだって探せば老いの証拠がしっかり埋もれていることだろう。そう考えると、ジャックの胸の中に説明の出来ない好ましい思いが湧き上がって来た。
「まあ、君に学問仲間が出来たのは喜ばしいことだ」
「ああ。おかげでこの先退屈せずに済みそうだよ。なんせ今まで教養や知識に理解のない粗野な軍人にばかり囲まれていたから」
 ジャックは横目でスティーブンを睨んだが、その顔ににやけた笑いが貼り付いているのを見て、つられるように声を出して笑った。


 夕食のあと雑務を済ませ、ジャックは陸図と数冊の本を持って軍医の居室をノックした。隙間から漏れる光で中に人が居るのは分かったが、しかし一瞬の間をおいて返って来た返事は、スティーブンの声ではなかった。
「ミスタ・ブレイクニー?」
 ドアを開けると、上着以外はまだきっちりと制服を着込んでいるブレイクニーがさっと椅子から飛び降り、敬礼した。部屋には他に誰も居ないが、スティーブンの飲み残しらしいコーヒーカップが机に乗っている。
「あー……ドクターは? 居ないのか」
「甲板に出ていらっしゃいます。あと少ししたら戻られると思います」 
 煙草を吸いに行ったなと思い、出直そうかとも考えたが、ふとブレイクニーが今まで読んでいたらしい机上の本に目が留まった。人体の解剖図が大きく載っている、相当分厚い一冊だ。
「医学書まで読んでいるのか……。生粋の学生にもない勤勉さだな」
 そう言って微笑みかけると、ブレイクニーはさっと顔を紅潮させ、照れたようなぎこちない笑顔を見せた。
 ジャックはスティーブンが戻って来るまで待つことにし、広くはない居室の中をぐるりと眺めた。相変わらずよくここまで詰め込んだものだと思うくらい雑多な本や道具が収まっている部屋だが、どうやら最近はこの小さな「学生」用に椅子やペンも増やされたらしい。ブレイクニーの手元には他にも何冊か、太い背表紙の本やノートが積み重ねられている。
「若いうちに勤勉であるのはいい事だ。この年になって後悔するよりずっといい。ドクターはいい教師かね?」
 その一番上に重ねられている本を何気なくぱらぱらと捲る。壊血病に関する論文--スティーブンの著書だ。ブレイクニーは緊張したような声色でイエス・サーと一言返した。まったく、珍しい少年だ。他の候補生は多かれ少なかれ自由な時間をゲームやグロックや他愛ないお喋り、下らない小競り合いに費やしているのに。
 ジャックはスティーブンを艦に乗るよう説得した時の事をふと思い出した。あなたの器を満たさせて欲しいと……今思うとなんとも気恥ずかしい台詞で、腕のいい内科医をまるで新任の自分の艦に引っ張り上げたのがもうとてつもなく昔の事のように思える。果たして自分はその言葉を実行しきれているだろうか? ジャックは少々心に引っ掛かるものを感じたが、その時背後でドアが開き、微かな煙の匂いと一緒にスティーブンが戻って来た。
「ジャック? どうしたんだ」
「ああ、これを返そうと思ってな。それと……」
 言葉を続けようとして、ジャックはブレイクニーが立ったままこちらを見ているのに気付いた。
「うん?」
「ああ、いや。地図も本も実に役に立った。ありがとう」
 もしスティーブンの手が空いていたら久しぶりの音楽に誘おうと考えていたのだが、彼の生徒はまだ満たされていない好奇心でいっぱいの瞳で、師をじっと見つめている。頬はまだ赤く火照ったままで、何か言い出したくてうずうずしているような、それでいて気後れしているような奇妙な表情がジャックの目をひいた。
 その視線に気付いているのかいないのか、スティーブンはのんびりと本を捲りながら不精髭の目立つ顎を撫でている。その時、ジャックはふと机の上に視線を戻し、そこに乗っている本が開かれた医学書も含めて全てスティーブンの著書である事に気付いた。
 ブレイクニーはもはやジャックの存在など忘れたかのように、まるで観察でもしているような熱心さでスティーブンの仕草を追っている。
 ジャックはその部下の目の中に初めて読み取り難い、不可解なものを感じ、一瞬戸惑った。
「あー……スティーブン」
 例によってぶつぶつと何か呟きながら紙を捲っていたスティーブンは、ジャックの呼びかけにぱっと顔を上げた。いつもと変わらぬ、平坦な表情だ。
「私は失礼するよ。ミスタ・ブレイクニー、あまり根を詰めすぎないようにな」
 ブレイクニーは我に返ったようにジャックに視線を向けると、アイ・サーとやたら元気よく答え拳を額に当てた。


 艦首楼甲板から聞こえる誰かの調子っぱずれな歌声を聞きながら、ジャックはキャビンに戻り、スティーブンが自分の部屋には余地がないからと置きっぱなしにしているチェロのケースを眺めた。何か、とても些細で、それでいて重要そうなわだかまりが胸に残っている。
 しかしそういうものを突き詰めて考えるのが得意ではないジャックは、歌声と波の音に流されるようにやがてそれを忘れていった。消灯時間を過ぎた後にも、ハンモックの上で身じろぎもせずスティーブンの声や姿を飽く無く反芻し続けている少年が居ることなど、彼の頭の中では想像も及ばなかった。

ロード初恋気分全開。自分で書いててヤキモキします(あほか)。
今後も1話完結でありながら全体的には繋がっていく……というような展開で
お届けしていくと思われますロードオブザブレマチュ。。

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